用語解説
用語の読み
ちぇるのぶいりげんぱつじこ
用語の意味
ウクライナ共和国にあったチェルノブイリ原子力発電所の4号炉で、1986年4月26日未明に大爆発が起きました。この大爆発事故により原子炉は破壊され、火災が発生しました。消火活動はヘリコプターから鉛や砂などを総計5000トン投下する方法で行われましたが難航し、ようやく火災が収まったのは爆発後2週間後の5月10日です。
消火活動や瓦礫の撤去作業、除線作業に従事した人々を「リクビタトール」と呼びます。彼らはこれらの作業を十分な装備なしに手作業などで行いました。リクビタトールの総数は60~80万人にも上るとも言われており、なかでも特にひどく被ばくした27人のリクビタトールは鉛の棺に埋葬されてモスクワ・ミチノ基地で永眠しています。また、爆発した4号炉からこれ以上放射性物質が広がらないようにするために、石棺で囲い込むための建設工事が始まりました。
この大爆発・火災事故により、原子炉の放射性物質は国内だけではなく世界各地に広がりました。放射性物質は花粉のように風にのって移動する性質を持つため、原発事故が起きた地点から約8000キロ離れた日本でも水や野菜・母乳から放射性物質が検出されました。
原子力発電所の労働者達が多く暮らしていた町、プリピチャでは、ほとんどの住民がその日のうちに原子力発電所での大爆発・火災事故の事実を知っていました。しかし、被ばくを恐れて家の窓を閉めて閉じこもっていたのはほんの一部の人達だけで、ほとんどの人達は屋外で日常と同じ生活を送っていました。プリピチャの住民たちに避難勧告が出されたのは4月27日の昼ごろのことです。ラジオ放送から流された勧告では、3日分の食料と身分証明書を持って避難するようにという内容だったため、住民たちは3日もすれば家に帰れるものだと考えていました。でも、プリピチャの住民たちは二度とここでの生活に戻ることが出来なくなってしまいました。プリピチャ市以外の原発周辺30㎞県内に暮らしていた農民たちは、事故が起きたこと自体知らされていませんでした。そのため、彼らは放射性物質の危険にさらされていることを知らず、屋外で通常の日常生活を送っていました。彼らに避難勧告が出たのは事故から1週間後の5月2日のことです。実際に避難が始まったのは5月3日で、1週間かけて約12万人と家畜の避難が完了しました。
放射性物質の中でも特に問題とされているのが「ヨウ素131」と「セシウム137」です。ヨウ素131はヒトの甲状腺に集積し、甲状腺の機能障害や甲状腺がんの原因となります。またセシウム137は水や食べ物に取り込まれやすく、外部被ばくだけではなく内部被ばくをもたらします。公に認められている健康被害としては甲状腺がんのみですが、その他にも白血病や心臓疾患などの被害が事故後増加しているという報告も認められています。特に原発事故が起きた時に0歳~6歳だった子供が甲状腺がんにかかるリスクが高いとされているため、現在25歳~31歳にあたる人達が将来的にがんを発症させる確率が高いと考えられています。これらの放射性物質での汚染区域は約145000㎢とされ、ロシア・ウクライナ・ベラルーシの3国のうち約600万人がこの区域での生活を余儀なくされています。
事故後25年経つ今、立ち入り禁止区域を訪れるツアーが人気を集めるなどして、チェルノブイリが観光地化してきています。また一部の移住者たちのなかには避難先の都会の生活になじむことが出来ずに、居住禁止区域にある自宅に戻って生活している人達が出てきています。しかし、放射性物質は眼に見えないだけで今でもそれらの区域は汚染されています。また4号炉を覆う石棺の老朽化による放射性物質の広がりを懸念し、現在ウクライナ共和国ではさらに新しい石棺を建設する計画が進められています。
看護師・椿(つばき)の一言コメント
チェルノブイリ原発事故が起ったのは1986年4月のことです。
後に死者数は4000人(チェルノブイリ・フォーラム)と公式見解がなされましたが、放射性物質に関連する死者数はまだ未だに議論の余地があると言われていますね。
チェルノブイリ原発事故により、約40万人以上が移住を余儀なくされました。
そもそもこの事故の原因は人為的な事が大きいとされています。
事故後も不適切な対応により更に被害は拡大したとされ、史上最悪の原子力事故と言われています。
中でも一番大きな被害を受けたのは子供でしょう。
ネットでも実際に被ばく受けた写真が公開されていますが、本当に目を覆いたくなるなるような惨状です。
この事故から今年で26年を迎えましたが、原発の周辺はゴーストタウンのままで、永遠に立ち入りが制限されると発表されました。