今回は高齢者施設での自然死について、コンテンツ作りを手伝ってくださった看護師Sさんのお話がとても印象的でしたので、そのエピソードを皆さんに紹介します。
高齢者施設での自然死 -積極的医療から生活を支える医療へ-
私が高齢者施設に勤め始めた時に、師長経験もある先輩看護師から「病院の時とは違い、枯れるような美しいご遺体を看取ることができる」と言われました。
自然死は経験をしたことのない経過でしたから、正直、1例目は不安もありました。
それでも、点滴で水膨れになって看取ることに疑問を感じていたことと、不謹慎かもしれませんが「美しい自然死をみてみたい!」という好奇心から、高齢者施設で自然死を看取ってきました。
ここで私が経験してきたことをお伝えします。
1.加齢による検査の異常を病気にしない
高齢者に血液検査をすると、何らかの異常がでる確率のほうが高いです。臨床検査の判定基準値は、成人の基準値によって判定されていることが多いからです。
高齢者に検査をする場合は、これまでの生活習慣(食生活・教養・職業・地域性など)が個人に影響を与えていることも考慮しなければなりません。
検査の異常を安易に病気にしてしまうと、何でも治療ができる日本の医療環境では、逆に苦しみを与えかねません。
高齢者は日常を観察し、検査ではなく、いつもよりおかしいと思う気づきが重要になります。
声の大きさや目力、体重の変化で予後を予測していきます。食べられなくなる、排尿がないことを、病気か自然の経過か判断できる経験が必要になります。
「どのように生きたいのか」に寄り添う時、選択肢のひとつになりますが、糖尿病も管理ではなく、美味しく自分らしく食べてもらうにはどうすればいいのか?と考えて、薬も副作用の影響を考えて医師と相談し調整することも大切になってきます。
2.自分が看取るという覚悟で、看護の醍醐味を味わう
病院で亡くなる数時間の医療費が高騰するため、施設や在宅での最期をすすめている日本。
看護師の役割も大きくなりますが、人は経験したことがないと不安を感じやすいので、なかなか一歩前に進めません。不安のままでもいいので、やってみるという決意ができることからがスタートです。
自分で看取るという経験を重ねると、その人らしい最期を、演出してあげられるというやりがいに気づけます。
好きなものを食べて欲しい、お風呂に入れてあげたい、思い出の場所へ外出させたい…など自分のやりたかった看護を自分がチームを動かし行える時になります。
このような看護の醍醐味が味わえると、看護が面白くてたまらくなります。
3.病院とは違う、自然死の美しさに驚く
昔は、家で自然と死んでいくのが当たり前でした。
現代では、食事は1口だけで2ヶ月過ごし、身体は痩せてきて、水も飲まない、尿も一滴もでない日が1週間もあれば不安になるかもしれません。
痩せてきて寝ている時間が長くなると苦しいのではないかと感じてしまいますが、餓死とは違うのです。本人は、飢えも渇きも感じていないのです。
臨終時の苦しそうにみえる呼吸の変化も、脳の機能低下であり、安らかな眠りに入ったと臨終の経過を知っておくことも大事です。それを知っていれば、苦しんでいるのに何もしなかったという罪悪感が払拭できます。
ご遺体になられた時は、骨に皮膚がはりつき、その皮膚の艶やかなことに驚きます。後光が差すとは、こういうことかと思うほど、その人から光がはなたれ美しく感じます。
病院の時には、穴という穴に詰め物をしましたが、排泄されるものがないで、処置はほとんど必要ありません。臭いもありません。
自分を全て使い生きた、と誇れるものを感じ、看取る側も満足度が高かったです。
おわりに -海外には命の見切りという考えがあります
高福祉の海外では、日本のように社会福祉法人が運営している高齢者施設での平均余命は、6か月と言われています。いよいよ最期の時に行く場所になります。
そこでは風邪で薬を処方することもなく、積極的な治療もありません。
厳しい現実ですが、命を終える場所であることを全員が理解しているのです。
人はやがて老いて病んで死んでいきますが、生まれる時も死ぬ時も病院が関与するようになり、私たちは死に方についてもわからなくなっているのかもしれません。
生活の中での医療の現実を考える時かもしれません。「どのような最期でありたいのか」人任せにせず、真剣に家族で話し合うことも、これからは必要なのだと思います。